プロフィール

Profile

大倉 あき子プロフィール

●三鷹市議会議員2023年4月3期目当選
●三鷹市議会公明党幹事長
●文教委員会委員長
●三鷹駅前再開発及び市庁舎等調査検討特別委員会委員
●ふじみ衛生組合議会議員
●三鷹商工振興対策審議会委員
○東京都新宿区生まれ 
○大妻女子大学中野女子高等学校卒業
○武田薬品工業(株)1985 入社
○夫と1女2男〈Z世代〉の5人家族
○性格:行動的・楽観主義・おおらか
○趣味:音楽鑑賞/映画鑑賞/読書/フラワーアレンジメント
○好きな食べ物:ドライフルーツ/栗/のしいか/小川軒のレーズンサンド/お餅
○好きなアーティスト:マイケルジャクソン/クイーン/BE:FIRST
○好きな言葉:「一期一会。勇気があるかないかで人生は180度変わる」「心こそ大切なれ」「希望」

友人家族からよくいわれること

良く言えば情深く、悪く言えば情に流される。人間好き。
息子からはいつも楽観的な私をみて「ハイジみたい」と言われている。

The Life of Mine

これまでのあゆみ

兄を亡くすも明るい母しか記憶にない幼少期

新宿区で生まれ、3歳の時に杉並区に転居。活発で毎日近所の友達と暗くなるまで遊んでいた。演劇ごっこが大好きで、小学校の学芸会では仲の良かった友達とシナリオを書いてクラスで披露したことも。小学校4年生の時には父親に連れていってもらった新宿のパレードで見た富士鼓笛隊に憧れて、入隊。以来11年間にわたって富士鼓笛隊で薫陶を受ける。出動があると夏休みもゴールデンウイークも返上し厳しい練習があり、時には辛くて泣きたい時もあったが、たくさんのかけがえのない思い出と生き方の芯を築かせてもらう。

3歳の時に2歳上だった兄を交通事故で亡くす。両親の悲しみは計り知れないものがあったとおもうが、私の記憶には明るく前向きだった母しかいない。情に深く困っている人を放っておけない母で、乳がんで手術をしなければならない方の赤ちゃんを預かったり、家庭内暴力で悩む友人親子をしばらく迎え入れたりするような家だった。私の友人が母に直接相談に行くというようなことも珍しくなく、そんな母の姿を見て育つ。いつも人を勇気づけていた母がよく言っていた言葉は「ママはいろんなものに感謝している。いつも颯爽と生きなさい!」であった。

人生に影響を与える出逢いがあった学生時代

サンリオショップでアルバイトし、テニスとスキーのサークルに入っていた。そのかたわら、鼓笛隊の練習にも汗を流す。とにかく人と会って話すのが好きで、学生時代は多くの人との素敵な出逢いがあった。特に地域の先輩の「人に尽くす生き方」に感動。自分のことで精一杯だったと反省し、少しでもその生き方に近づきたいと決意する。

母の看病と父の事業が傾き苦しかった20代

大手製薬会社の営業事務に従事。残業も多く忙しい部署だったが、人間関係にも恵まれやりがいを持って働く。母の病気を機に忙しすぎた職場を退職。しばらく母の看病と家事に勤しむ。この時に花の美しさに癒され、日本古流の師範の看板とフラワーアレンジメント協会3級の資格を取る。その後、父の事業がバブル経済ではじけた影響で傾く。人生の中で一番苦しかった数年でもある。この時に大好きな尊敬する先輩から、「何があっても凛として生きるんだよ」と慈愛溢れる心で励ましてもらったことが私の支えとなる。

年の近い3児と過ごした無我夢中な子育て期

共通の友人を通じて主人と出逢い、結婚。初めて会った時の印象は「お金はないけれど真面目でまっすぐ、笑顔に嘘がない人」。この印象と直感は今でも変わらない。2000年に長女、2002年に長男、2005年に次男を出産。年の近い3人の子を抱え毎日がてんやわんやの日々。
第三子妊娠8か月の時、2人の子どもを前後に載せた自転車でペダルを踏み外し、転んでしまったことがあった。通りすがりの人に助けてもらい事なきを得たが、今考えると相当無謀だった。当時は毎日が必至でとにかく無我夢中。未就学児を3人つれている母親を見ると、当時の自分を思い出し、思わず「ガンバレ~!」と心で叫びながら心からエールを送っている。

義父の看病とのダブルケアで尽くした半年間

子供が小学校3年生、2年生、年少の時、石川県に住む義母が亡くなり、1人暮しをしていた義父が癌の宣告を受けた。一人にしておけず、亡くなる半年間を一緒に暮らし看取る。子育てと介護、更に幼稚園の役員に地域の役割もあり、本当に必至の毎日だったが、その父が亡くなる数か月前、「最高の嫁だった」と言ってくれたことがあった。「寂しい思いをさせたくない、少しでも喜んで幸せでいてほしい」と思い、精一杯尽くしてきたことが通じていたんだと深く感動した。

政治家になった理由

公明党支持者の家庭に生まれ、小さい頃から公明党を一生懸命応援する両親を見てきた。私自身も公明党が大好きで、20歳で選挙権を持ってからもずっと応援している政党だった。私自身に出馬という白羽の矢がたった時、3人の子育て経験、父や義父を介護して看取った経験などを生かして、残りの人生は皆様のお役に立っていきたいと決意。

主人の父が生前に言っていた「人生は短い!」という言葉、主人からの「みんながあきこに期待してくれているなら、何があっても支えるから」という言葉、尊敬する先輩からの「どの道、人生には苦労がある。人のために尽くせる苦労は最高じゃないの!」という言葉が私の背中を大きく押してくれた。

当時は女性議員、ましてや子育て中の議員も少ない時代だった。だからこそ女性の視点、普通の主婦の声を届けていきたいと思い、出馬の意向を固めた。

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